大阪高等裁判所 平成4年(う)420号 判決
1 原判決には,本件の起訴状に訴因として明示された「アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込んだ過失」のほか,訴因変更手続を経ないで,これと過失の内容を異にし,起訴状に訴因として明示されていない「確実に制動をしないという過失」をも認定し,被告人の防御権に実質的な不利益を与えた点で,刑訴法378条3号の審判の請求を受けない事件について判決をした違法があるとの主張について
本件事故の概要は,被告人が普通乗用自動車を運転中,事故現場の道路を同一方向に向かって歩行中のKsに衝突して同人を跳ね飛ばし,引き続き,前方の交差点手前で信号待ちのため停止していたS運転の普通貨物自動車に追突し,Ks及びSの両名に対して傷害を負わせたというものであり,起訴状では,「ハンドル・ブレーキを確実に操作して運転し,事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り,制動しようとした際アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込んだ過失により」本件事故を惹起した旨記載されているところ,原判決は,「被告人は,まず,アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込み,これにより被告人車を加速進行させた後,ブレーキペダルを踏んでS車に対しノーズダイブ衝突をし,以上の経過の中でKs及びS車との衝突を惹起している。」として,「アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込んだ過失のほか,「確実に制動をしないという過失」をも付加して設定している。
しかし,「ペダルの踏み間違い」のあと,ブレーキを踏んだ事実があったとしても,ブレーキペダルを踏んだ地点を確定できる証拠はない上,ブレーキを踏めばKs及びS車との二つの衝突若しくはそのいずれかの結果の発生を防止し得たと認めるに足りる具体的な証拠は存しないのであるから,本件において,被告人の過失としては「ペダルの踏み間違い」を認定するだけで十分である。したがって,原判決が前記のような付加認定をしたことは不必要であって,誤りであるというべきであるが,原判決によれば,「アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込んだことが,本件事故に至った実質的な危険を有する基本的な過失というべきものであり,確実に制動しなかったことは,基本的な過失により惹起された状況の善後措置ないし是正措置として,これから派生した過失として付加されたに過ぎないというべきものである。」というのであるから,いずれにしても,右の誤りは判決に影響を及ぼすものとはいえない。のみならず,そうした原判決の付加認定を前提として考えても,「確実に制動をしないという過失」というのは,「ペダルの踏み間違いの過失」というのと同じく,公訴事実にいう「ブレーキの確実操作運転義務」違反そのものであって,いずれもブレーキ操作の誤りに変わりがなく,過失の態様を異にするものではないから,訴因変更の手続は必要でないばかりでなく,右注意義務違反の点については十分な訴訟活動がなされ,被告人に防御の機会が与えられていたことは,原審における審理の経過に照らして明らかであるから,原判決に所論のような違法はない。
2 「本件事故の原因は,被告人がアクセルペダルをブレーキペダルと踏み間違えて被告人車を暴走させたことにあるのではなく,被告人車のエンジン回転数が突然上昇して暴走したことにあるから,被告人を無罪とすべきであるのに,原判決が被告人の過失を認めて有罪としたのは,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認である。」との主張について
(1) 被告人が供述するように,もし被告人車が走行中に突然急加速し,ブレーキを一杯に踏み込んでも車両が止まらなかったとすれば,その起こり得る条件としては,エンジン回転数が上昇して車両を急に加速するだけの駆動力が発生したこと及びブレーキが車両を止めるだけの制動力を失ったことが同時に発生した場合であると考えられるところ,Km鑑定によると,エンジン回転数上昇の可能性については,「被告人車のエンジンの出力調節は混合気の流量をキャブレターに設けられたスロットルバルブで制御することによって行われ,同バルブが開放されなければエンジンから出力は発生しないところ,アクセルペダルを踏み込むことなく,エンジンが高出力を発生することは困難である。」とされ,ブレーキ性能低下の可能性については,「被告人車のブレーキテスタによる制動力の測定結果等によると,被告人車は十分な制動力を有しているものと認められ,仮に車両が暴走したとしてもフットブレーキを強く踏むことにより車両を停止させることができる。」とされており,同鑑定の信用性に具体的な疑いを抱かせるような特段の事情は認められない上,H鑑定によれば,「自動車工学の見地からは,ブレーキペダルを一杯に踏み込んだにもかかわらず,駆動力が制動力を上回り,自動車が暴走して加速を続けるということは成り立ち得ず,被告人車のエンジンが全開状態になったとしても,ブレーキペダルを一杯に踏み込むことによって制動できる。」というのであって,このH鑑定に照らしても,Km鑑定の信用性を認めるに十分である。
(2) 所論に沿うM鑑定について検討するに,①被告人車のようなエンジン負圧を利用した制動倍力装置を装備した車では駆動力が制動力を上回り,ブレーキペダルを踏み込んでも制動できないことがあり得るという点は,一般論であって,本件の場合がそういう状態にあったということにはならない。②制動倍力装置が失陥状態にある速度領域ではブレーキペダルを強く踏んでも停止しないことが被告人車の実験によって確認できたという点は,あくまでエンジン回転数が急上昇しそれが維持された場合を想定して行った実験の結果を述べたに過ぎず,本件がそういう場合と同じ条件のもとにあったということにはならない。③被告人車が暴走を開始してからS車に衝突するまでの進行距離は約26メートルしかなく,この間に原判決の認定するような「被告人が,まず,アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込み,これにより被告人車を加速進行させた後,ブレーキペダルを踏んでS車にノーズダイブ衝突をした。」という事故態様は考えられないという点は,暴走開始時の被告人車の速度に関する誤った事実認定を前提としており失当である。また,「被告人車がS車に追突した後,再度アクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込むなどということは,人間工学的に考えられない行動である。」という点は,原判決は,被告人車がS車に追突した後,被告人においてアクセルペダルを踏んだと認定しているわけではないから,前提の点で失当というべきである。④被告人車の暴走の原因は,アクセルワイヤ及びリンケージ等の取付状況による干渉並びに摺動抵抗等によってスロットルバルブが60パーセント以上に開き,エンジン回転数が4,000回転以上に上昇したことが考えられるという点は,「本件において,アクセルペダルを踏み込まないのにエンジン回転数が上昇したとすれば」という仮定を前提としたものであって,この仮定が成り立ち得ることを論証しているものではない。
次に,所論に沿うA鑑定について検討するに,同鑑定は,被告人車の暴走はエンジンの故障による異常回転にあるとし,その故障原因として,①アクセルワイヤの戻り不良,②フェード現象及びベーパーロック現象の発生及び③制動倍力装置の欠陥を挙げるが,①の点は,被告人車の検証等によって確認された具体的な判断ではなく,推測の域を出ないものであり,②の点は,発進後異常を感じたという地点までの被告人車の走行距離は約50ないし60メートルという短距離にすぎないことにかんがみると,そのような現象が発生したとは到底認め難く,③の点は,S車とのノーズダイブ衝突から明らかなとおり,被告人車のブレーキは利く状態にあったもので,本件がそのような欠陥があった場合であるとはいえない。
したがって,前記両鑑定をもって被告人車の暴走原因がエンジン回転数の異常上昇にあるとすることはできない。
(3) 以上のとおり,被告人車が走行中に突然エンジン回転数が上昇して急加速し,それと同時に,ブレーキを踏んでも車両を止めるだけの制動力を失った旨の所論の主張をうかがわせるに足りる事情は存在しないのであって,本件事故の原因は,原判決が認定するとおり,被告人がアクセルペダルをブレーキペダルと間違えて踏み込んだことにあると認めるのが相当である。これを否定する被告人の捜査段階からの供述は信用できず,右判断を左右するに足りる証拠は存しないから,原判決に所論のような事実誤認はない。